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そうだ、京都に住もう
第1回 京都は現金取引

 目が覚めてカーテンを開けると、東の山は雪をかぶってごま塩状態になっていた。川端通の路面はすっかり乾いている。歩いている人は寒そうだ。快晴。
 3月30日。この日の午後、私と妻は京都市内の家を買った。
 朝食は[スマート珈琲店]※1 のホットケーキ。朝の[スマート珈琲店]は半分が観光客だ(私たちもそうだけど)。ガイドブックや地図を開きながらコーヒーを飲んでいる人が多い。残りの半分は近所の人で、こちらは新聞を読みながら。私もポケットから地図を出して眺めた。
 ホテルに戻って歯を磨き、チェックアウトする。前日フロントに預けていた預金通帳を受け取る。ポケットの上から印鑑があることをそっと確かめる。
 市役所前駅改札そばのコインロッカーにボストンバッグを入れた。取引は午後2時からなので、その前に東寺を拝観しよう。ホテルの前から乗ったバスは河原町通を下がっていく。四条を越えて、[ミナペルホネン]が入った壽ビルディング※2 の前を通ったとき、「ああ、この先の建築中のマンションも見に来たんだったな」と思った。あのときは古い町家を買うことになるとは思ってもいなかった。
 東寺は空海の特別展をやっていた。数年前から書に関心がわいていて、空海の筆の運びを目でなぞるようにして見た。どうして子どものときに書道を習っておかなかったんだろうと後悔する。字はいくら気をつけてもきれいにならない。

 再びバスで市役所前まで戻り、ホテルの地下にあるベーカリー&レストランでお昼のコースを食べた。1時30分、京阪電車に乗って出町柳に向かった。駅を出て、橋を渡って銀行へ。
 銀行の入口で不動産会社、[ルームマーケット]※3 の平野準さんが待っていた。
 「寒いですな。びっくりしましたわ。昨日は雪、降りましたな」と平野さんはいう。そう、昨日は建築家の河井敏明※4 さんにあちこち案内していただいて、その途中から小雨がみぞれになり、みぞれが雪になった。夜、河井さんのクルマでホテルまで送ってもらった後、あまりにも寒いので外に出る気になれず、夕食はホテル内のレストランでとったのだった。
 「こちらです」と平野さんがロビー奥のブースに案内してくれた。すでに来ていた司法書士の池田和彦さん、そして売り主側の不動産会社と司法書士に挨拶をする。池田さんに今日の手順を説明してもらい、お茶を飲みながら「3月末でも雪が降るんですね」などとどうでもいい世間話をしていると、売り主さんが到着した。
 預金を引き出す伝票を何枚か書いた。まず、土地建物の代金の伝票。税金類の精算の伝票。[ルームマーケット]への手数料の伝票。登記および池田さんへの手数料の伝票。
 書き終えた私が「振込の伝票を書きましょう」というと、平野さんは「いりません」といった。
 「えっ。でも支払いが」
 「今日は現金です」
 「全額現金なんですか」
 「そうです」
  びっくりした。不動産取引はその場で相手先の口座に振り込むか、預金小切手をつくるものだと思っていた。
 「現金じゃ、もしもひったくりに遭ったらおしまいじゃないですか」
 「そう。だから皆さん現金だと気づかれないよう、ゴミ袋に入れてます。ゴミ袋に入れてぶら下げて歩いてますわ」
 ほんまかいな。
 伝票の処理を待つ間、売り主さんと世間話をした。
 私たちが買った家は築年数不明の古い町家なのだけれども、売り主さんはほとんど使わなかったらしい。子どもを御所南小学校※5 に入れるために校区のこの家を入手したものの、同志社の附属小学校に通うことになり、使わないまま手放すことにしたとか。「孫を同志社の附属小学校と、ノートルダムの幼稚園に送っていくのが私の仕事なんですよ」と売り主さんについてこられたお母さん(もしかするとお義母さん)がいう。
 そうこうしているうちに、現金の用意ができた。女性行員がお盆に載せた札束を持ってブースに入ってきた。ほんとに現金! いままでの人生でいちばん大きな額の現金かもしれない。
 売り主さんはバッグのなかから何かを取り出した。広げるとゴミ袋だ。さっきの平野さんの話は冗談ではなかったのだ。
 売り主さんはゴミ袋に現金を詰め、私たちに領収証を渡した。私と妻が京都に家を持った瞬間である。

【用語解説】
※1 スマート珈琲店(http://www.smartcoffee.jp/
寺町三条にある1932年創業の老舗喫茶店。名物のホットケーキは少女時代の美空ひばりも愛した味。2階の洋食ランチもおすすめ。
※2 壽ビルディング
1927年建立。レトロビルが多く残る京都でも珍しい、白い石造りのアメリカ風建築。[ミナペルホネン][ミナペルホネンピース]の他、子どもの本専門店[メリーゴーランド京都]、テキスタイル系の展示を得意とする[ギャラリーギャラリー]などが入る、乙女巡礼スポット。
※3 ルームマーケット(http://www.roommarket.jp/
「住の常識を変える」をテーマに、町家、洋館、倉庫、ルームシェア、改装自由…等々、ユニークな物件を多数取り扱う、左京区の名物不動産店。
※4 河井敏明(http://www.kawai-architects.com/
1995年に中村潔、植南草一郎、馬場徹と「建築少年」を結成。アーティストやダンサーとの共同作業など、建築設計にとどまらない幅広い活動で注目を浴びる。1999年に河井事務所設立。「四条木製ビル/第15長谷ビル」が2009年度京都デザイン賞で大賞受賞。京都の永江邸のリノベーションを担当する。
※5 御所南小学校
その名の通り京都御所の南に位置。公立校ながら、文部省の研究開発指定モデル校に指定されているため、教育熱心と評判が高い。ここに子どもを通わせたいがために、わざわざ学区内にマンションを買うというケースも多く、「御所南」は京都の中でもブランドエリアとなっている。
永江 朗(ながえ・あきら)
「哲学からアダルトまで」を標榜するフリーライター。近著は『新・批評の事情』(ちくま文庫)。『Meets Regional』では長期にわたって「本のむこう側」を連載中。東京・自由ヶ丘の自宅は建築家ユニット、アトリエ・ワンによる設計。