大阪新阪急ホテル、最後の1日…約100人から大きな拍手で幕

2025.1.6 12:15

閉館の時を見守るため100人以上が玄関前に集まり、急遽スタッフが勢揃いで閉館の挨拶をおこなった(1月5日・昼12時半頃:大阪新阪急ホテル)

(写真19枚)

◆ 閉館を惜しむ人たちの寄せ書きと、館内の貴重な資料ともにホテルの歴史を振り返る

最終日には寄せ書きコーナーは4冊に(1月5日・昼12時半頃:大阪新阪急ホテル)

結婚と言えば、「寄せ書きコーナー」にも多数のメッセージが寄せられている。「1996年にチャペルで結婚式をあげ、ラストデイに宿泊に来ました。またいつか再開してくださるのを楽しみにしています」「42年前に結婚式をしました。とっても幸せなお式でした。今でも仲良く幸せです」「妻とはじめてお見合いしたのがブリアンでした。最後に子供たちと一緒にブリアンでお茶をして、想い出作りができました」等、お見合いや結婚式の思い出を書き残している人がとても多く、同ホテルがたくさんの人の華やかな「ハレ」の場であったことを感じさせる。

1968年頃に制作された婚礼用パンフレット。婚礼の段取りなどが細かく記載されていて、デザインにもこだわりを感じる

また「小さいとき、誕生日に家族でオリンピアに来て食事するのが楽しみでした」「オリンピアで家族みんなおなかいっぱい食べました! 最高!」「最後の日に家族でオリンピアで食事をしました。ホテルもオリンピアも再オープンしてください、待っています」など、バイキングレストラン「オリンピア」での思い出や復活希望のメッセージも多数寄せられており、ファミリーを中心に根強い人気を感じさせた。1964年の開業当時、大阪では「バイキング」形式は大変珍しく、爆発的な人気となったそう。現在の関西でも多数ある「ホテルビュッフェ」の先駆け的存在だったようだ。

60年分のパンフレットなど貴重な資料の数々。見たことあるものはありますか?

さらに「宝塚ファンになって20年、新阪急ホテルも夢の世界の一部でした。今までありがとう」「大劇場の緞帳が大好きでした」「大好きだった峰さを理さん、南風まいさんのディナーショーにきたのがはじめてで、忘れられません」など「宝塚歌劇」の思い出を寄せた人も多い。

「新阪急ホテル25年史」によると、鳳蘭ら多くのタカラジェンヌがディナーショーを同ホテルで行っただけでなく、1964年の開業パーティーで天津乙女さん(当時宝塚歌劇団理事)が「三番曳」を舞い、またその後も25周年の記念式典で松本悠里さん(当時宝塚歌劇団)が日舞を披露した、という記録が残っており、歌劇との関係も非常に深いホテルでもあった。

ロビー壁面を飾る緞帳は、1988年から2001年まで「宝塚大劇場」で使用されていたもの

同ホテルが開業した1964年当時、宿泊は1800円、バイキングはひとり1000円。ホテル周辺に高い建物はなく、今の梅田の街も全く違う景色だった。今後「阪急梅田駅」一帯は大規模な再開発が予定されており、60年間たくさんの人をもてなしてきた同ホテルの建物は1969年開業の「阪急三番街」、1972年開業の「阪急ターミナルビル」などとともに今後取り壊しとなり、新たな姿に変わる見込み。なお宿泊に特化した「新阪急ホテルアネックス」の営業は続く。

開業当時の屋外広告。館内所蔵されていたスクラップブックに当時のスタッフの愛を感じる

ひとつの時代が終わり、さらに大きく変わっていく梅田の「一等地」の景色。多くの人に愛された同ホテルの思い出とともに、今後新しく生まれ変わる「阪急梅田駅」界隈の未来に期待したい。

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