第128回 分数の割り算できへんくてその後の人生つまずいてる、と思った時の話。
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3月☆日
近所のドラッグストアはどこも毎朝行列ができているらしい。一斉休校が伝えられた翌日から紙ものが店頭からなくなって、そのときは1週間か2週間くらいで元に戻るやろうって予測を世の中もわたしも持っていて、そんなに買わんでもってなってたけど、2週間過ぎても全然元に戻らない。あっちの店には入荷してたらしいとか、何時頃が狙い目らしい、みたいな情報はあるものの、入荷してもすぐなくなって棚は空のまま。わたしみたいに生活時間が後ろにずれてて、外に出るのは早くて昼過ぎの人間やと、なかなか出会えない。紙ものは時間帯を狙えば獲得できるようやけど、とんと見かけないのはマスクと除菌アルコール系のもの(スプレーとかウェットティッシュとか)。外出もほとんどしないので、部屋から発掘されたマスクでしのいできたけど、当分この状況続きそうやし、そろそろ心配やなあ、と思いながらなんとはなしに入ったスーパーで、なんや周りの人がざわざわしている。もしや、と、近づいてみると、マスクが!入荷して並べたところやったらしく、まだちょこっとだけ残っていて、7枚入りのを買えた。周りにいた人も、慌てて手に取るというよりは、半信半疑というか、え? あるの? 買ってもいいの? と妙な感じで、それだけマスク幻状態が続いてたのやなあと思う。数日後、同じスーパーで似たような感じで携帯用除菌ジェルを入手。朝イチで売り出すドラッグストアより入荷時間がばらばらのスーパーが狙い目らしいと人からも聞いたけど、それにしてもなかなか戻らないこの状態、今までに経験したことない事態やな。
3月☆日
実は16日にステレオラブのライブに行く予定になっていて、続々とほかのミュージシャンの公演の延期や中止の報が入る中、全然知らせが来ない。10日前になっても来ないので、もしかしてこれはあるんちゃうん、といっしょに行くことになってた友達と言い合ってたから、3月前半はまだそんな感じやったんよね。ぎりぎり1週間前に延期の連絡があって、それはそうやんね、って今(5月上旬)は思うけど、そのときもなくなったほうがすっきりするから早く連絡来てほしいと思ってたけど、開催やったら行ってたかなあ、どうやろか。観たかったなあ、ステレオラブ。
3月☆日
桜が咲きはじめた。めっちゃ早い。東京は桜の開花が大阪より数日早くて、さらに温暖化で年々早くなってるので、東京に来て以来毎年、あれ? もう桜? うそちゃうん? 状態やけど、今年はそれも通り越して、こんな時期に咲いたらそのあとだいじょうぶなんかなと思ってしまう。その上、今年は集まってお花見もできそうにないし、近所でもお花見祭りのポスターには中止の紙が貼られて、桜の時期特有のうきうき感がしゅーっとしぼんでいってる感じ。テレビのニュースでも、桜の名所が立ち入り禁止になったと伝えられて、いつもは人でいっぱいのあの場所にも誰もおれへんのかー、と思ったら、誰もいないところで咲いてる桜きれいやろうなあ、と想像してしまう。桜には、人に見られるかどうかは関係なくて、お花見があろうがなかろうが、季節が来たら咲いて、散っていって、葉っぱが茂って、また咲く。桜は人が来たとか来えへんとかわかるんやろうか。
3月☆日
学校が休み中の姪が数学が苦手という話を聞き、わかりやすい数学の本を探す。この「わかりやすい」がどうわかりやすいかが肝要、と数学どころか算数の時点で苦手でめちゃめちゃ苦労したわたしは思う。人の理解の仕方ってそれぞれ違ってて、とにかく公式を覚えて当てはめるのができる人もいるみたいやけど、わたしのような理屈がわからないと進めない人も多いのではなかろうか。なんでそんなふうになるのか、なんのためにそうするのか、納得できないとその先に進めない。それをたいへん象徴的に描いていたのが『おもひでぽろぽろ』である。『おもひでぽろぽろ』は、主人公タエ子の27歳でOLをしている現在から、思い出深く現在に連なるできごとがいろいろあった小学5年生のときを振り返る構成になっている。その中で分数の割り算を習ったタエ子が「分数をひっくりかえして掛ければいい」というのが納得できず(おそらく教え方も、理屈をきっちり説明せずにただこうすれば答えが同じで楽にできる方式だったのだと思う)、テストで分数の割り算部分は全問不正解をもらってしまう。そのできごとを、あのとき、みんなみたいにそんなもんだからと受け入れられず考えすぎてしまったからその後の人生も似たようなつまずきを繰り返していると、27歳のタエ子は言う。わかる。めっちゃ、わかる。わたしもそう。分数の割り算できへんくて、その後の人生つまずいてる。しかし。当時高校3年生だったわたしは思った。このあと、自分は分数の割り算ができなかったから人生につまずいたと思って生きていくのはいやだ。と、いうことで、小学校の教科書を出してきて、参考書を買い、ひたすら考えた。3日ぐらいかかって、自分なりに理解した(わたしの場合、「割ったのに答えが減る」がつまずきポイントだった)。そして、今まで自分が出会ってきた数学の教え方はわたしには合ってない(たまたまと思う。別の公立小中学校の友達に聞いてみたら違うふうに教えられたと言ってた)、と思った。その後も数学はできなくて、それなのに公立大学を志望してセンター試験で数学を受けたら全然できなかったりしたのだが、大学4年のときに高校3年生の家庭教師をすることになり、チャート式を買ってきてめっちゃ勉強した。このときも、自力で考えたほうがわかって、今さら微分積分を理解した。内容はすっかり忘れてしまったし、その後の人生つまずいてないかって言われるとそんなことはないねんけど。それで、姪もそのタイプやと思い、いくつか本を見てみて、近所の本屋で見つけた中学3年分の数学がすぐわかる的なやつはまさに公式覚える系で全然だめで、もう1冊あった『東大の先生!文系の私に超わかりやすく数学を教えてください!』(西成活裕著・かんき出版)。たぶんこれや、と買って帰ったら大当たりでした。なんのために、そないな計算が必要か、なんのために、方程式を作ったりするのか。これがわかると次にこれができて、それを積み重ねると世の中のこんなことができる、とちゃんと解説されている。これです、求めてるのは。よく「勉強なんか人生/世の中では役に立てへんのんちゃうん」と言われたり言いたくなったりしますが、この本だとこの計算や式を作れるようになると、複雑な形のものが計れるとかとても具体的に説明してくれるし、式を作っていく過程も、なんでこうなってるか、なんでこうするか、ていう「なんで」の部分をめっちゃ解説してくれるので、そうやったんか、早よ言うてよ!という気持ちになります。文系というか、国語が好きで数学が苦手なタイプの人にはわかってもらえるんじゃないでしょうか。そもそも、国語も数学も、論理的に世界を表す方法の学問なので、そこを押さえればわかるはずなんよね。スポーツでも、名選手が必ずしも名監督やコーチになれるわけじゃないように(そして選手としてはすごい記録とか残さなくても監督やコーチとして活躍する人もいるように)、できることと教えることは違って、自分がさくっとできてしまうからこそ人に教えるのは難しいというのはよくある。たとえばわたしやと、道や方向がわかりすぎるので、方向音痴や地図が苦手な人に道を説明するときは、いっそうどう伝えたらいいか慎重になるべきやと思う。その人がどういうやり方をしてて、どの部分がわからへんて言うてるのか、それを知ることが教えることの第1歩やと思うねんなー、とわたしは中学の数学の先生に叫びたいです(移項したらプラスがマイナスになる、ていうのを何回質問しても、そう決まってるからとしか答えてくれなかった)。
本を姪に送ったら、たいへん喜ばれました。
3月☆日
ロシア文学者・沼野充義さんの退官記念最終講義をYouTubeで見る。ほんとは、東京大学で講義が予定されていて観に行くつもりでいたのですが、大学の授業もみんな中止とのことで、急遽YouTubeで配信になったそう。沼野充義さんの訳された本は、ロシア文学だけでなく、わたしはポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』が人生を支えてくれる本ベストに入るくらいで、チェーホフや世界文学を解説した本やスタニスワフ・レムのSF小説も読んできた。最終講義は、サハリンに関する文学や少数民族や移民系のロシア文学の作家たちの話を中心に展開し、文学が大きな声、全体主義に対抗していく存在であることを話されていて、とても励まされた。いろんな方が登壇予定だったシンポジウムがなくなったのは残念だったけど、配信で視聴者からの質問にその場で答えたり、普段ならなかなか来られない人も見ることができたのはすごくええなあと思った。そして何回か書いてるけど、わたしはやっぱり学校的な場が好きというか、授業に出たいなあ。
3月☆日
雪が降った。前の晩から、雪になるかもと天気予報で言うてて、ほんまかなーと思って朝起きたらめっちゃ雪やった。薄暗い重い雪雲から、大粒の雪がどんどん落ちてくる。夜中から雨が雪になるかもていう感じやったから、すぐやむかと思ったら全然やなまい。屋根やら植え込みやらに積もりはじめて、けっこうな雪景色になった。ほぼ満開の桜にもどんどん積もる。桜がめっちゃ早かったのに、季節逆戻りで混乱する。近所の商店街は、外出自粛になってからかえって人が多くなっててんけど、今日はさすがに人影もなく、ひっそりしてた。ひっそりして、桜に雪が積もってて、ずっと家にいて、SNSを開くと今後への不安や政府の対策への抗議が溢れてて、そのどれもが別々のことのような、でもその全体が今でしかありえない状況で、とにかく先行きがわからないことが、なにより誰もの気持ちも行動も不安定にしている。
プロフィール
柴崎友香(しばさき・ともか)
1973年大阪生まれ。映画化された『きょうのできごと』で作家デビュー。2007年に『その街の今は』で第57回芸術選推奨科学大臣新人賞、第23回織田作之助賞大賞、第24回咲くやこの花賞受賞。2010年に『寝ても覚めても』で第32回野間文芸新人賞受賞。2014年に『春の庭』で第151回芥川龍之介賞受賞。著書に『青空感傷ツアー』『フルタイムライフ』『また会う日まで』『星のしるし』『ドリーマーズ』『よそ見津々』『ビリジアン』『虹色と幸運』『わたしがいなかった街で』等多数。
公式サイト:http://shiba-to.com/
権田直博(ごんだ・なおひろ)
1981年大阪生まれ。画家。さまざまな手法を使って作品を作り、すべてを絵ととらえている。風呂からパブリックスペースまで幅広く活動中。
キレイ:https://naohirogonda.tumblr.com/
風呂ンティア:https://frontier-spiritus.blogspot.jp/
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