60歳から独学…SNSで注目の「隠れ巨匠の人形」が奈良へ

2024.8.4 10:00

二上山に埋葬された亡き弟(大津皇子)を思う歌を万葉集に残した大伯皇女。「うつそみの 日となる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む(この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めるのであろうか)」

(写真4枚)

2022年、定年退職後の老後の趣味として、60歳から独学で人形制作をしていた男性の作る、儚げな憂い顔が美しい有間皇子(ありまのみこ)の人形がSNSで話題になった。実は、この後も彼の人形たちは、さらなる展開を迎えていた。

■ SNSで拡散、遠方からの来場者も多く

弟・大津皇子が眠る二上山を背景に大伯皇女と大津皇子の姉弟の人形が並ぶ。永瀬さんが「愛する人を失った絶望や悲しみを形にしたい」と、有間皇子に続き、人形づくりに駆り立てられた人物である大伯皇女

大阪府在住の日本画家で華厳宗の尼僧・中田文花(なかたもんか)さんがSNSで「隠れ巨匠」と紹介したことで、ほぼ初めて世に知られるようになった美しい人形たち。制作者は、埼玉県在住の元美術教師である永瀬卓さん(75歳)だ。

無名であった永瀬さんのささやかな長年の夢は、「人形たちを故郷といえる奈良の地に一度でいいから立たせてあげたい」だった。それがなんと、「奈良文化財研究所主催」(共催:奈良大学)により、奈良県の「平城宮いざいない館」で、企画展という驚くべき形で実現したのだ。

考古遺物をメインに扱う「国立文化財機構 奈良文化財研究所」が現代作家の人形を展示するのは、初の試み。同展はSNSで拡散され、奈良文化財研究所の公式Xが50万インプレッションを記録。今は東京や新潟など遠方からの来館者も多い状況だという。

この開催までには、「東大寺二月堂の観音様の『計らい』だったのではと思います」と永瀬さんが語る、3名の関西在住の女性達との出会いがあった。

■ 「電気が走ったように鳥肌が立った」

4年前、永瀬さんが奈良・東大寺そばのホテルに泊まった際、同ホテルの女性オーナーに制作した人形の写真を見せ、その写真に心惹かれたオーナーがたまたま泊まりに来ていた旧知の中田さんに永瀬さんを引き合わせた。

自身も趣味で人形を制作している中田さんは、一目見て「素晴らしいお人形が世に埋もれないように。実際にお人形を見てみたい。そのためには、永瀬さんの夢である人形たちを奈良の地へ連れて行き、展覧会を開催できたら」との強い思いで、関西(できれば奈良県)の美術関係者や学芸員の目に留まることを願い、ご本人の許可を得て、SNSで人形を紹介した。

SNSでの発信は見事にバズり、多くの賛同者のコメントで溢れてニュース記事になった。それに目を留めたのが、当時、「奈良文化財研究所」の展示企画室長だった岩戸晶子さん(現・奈良大学教授)だ。人形の画像を見た当時の瞬間を「ビリビリと電気が走ったように鳥肌が立ちました。実際に自分の目で見てみたいと強く思ったのです」と回想する。

実は、永瀬さんが制作する人形は大変繊細なつくりであるため、奈良へ運ぶためには美術品として専門業者が扱う必要があった。だからこそ中田さんは、あえて展覧会の開催にこだわった経緯がある。中田さんからバトンを受け、永瀬さんの古代の人形を手掛かりに「奈良の歴史を知る展覧会を実現しよう」と、2年の歳月をかけて奔走した。

「奈良国立博物館」での学芸員経験もあり、正倉院宝物などの非常に繊細な文化財の扱いにも長けていた岩戸さんだからこそ実現できた企画といえる。

■ 永瀬さんの挽歌の世界観を、全作品撮影OK

万葉集に「家にあれば 笥に盛る飯を 草まくら 旅にしあれば 椎の葉に盛る(家にいたなら食器に盛る飯なのに、草を枕とする旅の身なので、椎の葉に盛る)」の歌を残した有間皇子。蘇我赤兄に裏切られ、捕まり紀伊国へ護送される際、死に向かう旅路で詠んだとされる

展示は、永瀬さんの人形と挽歌(ばんか)の世界観を通して、古代の奈良の歴史を知るとともに、万葉集に歌が残る歴史上の人物たちの人生や想いに触れる内容だ。

「並んだ人形はおしなべて幸せな人はいません」と永瀬さん。人形制作へ駆り立てた原点は、政争に巻き込まれ19歳の若さで処刑された有間皇子と天武天皇を父に天智天皇の皇女・大田皇女を母に持ち、将来を嘱望されながら謀反の罪で死を賜った大津皇子、そして、愛する弟を失った絶望を万葉集に残した姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)だという。

万葉集研究の第一人者・中西進の本の表紙を飾っていた人間国宝の人形作家・鹿児島寿蔵(かごしまじゅぞう)作の有間皇子人形に感銘を受けて、独学で人形制作を始めた永瀬さん。狂った振りをしなければならないほどの陰謀による恐怖、護送され死と向き合う絶望、その哀悼の気持ちを結晶として形に表し、この世に残してあげたいとの思いで制作した有間皇子を観ることができる。

蓮華の糸で一夜にして曼荼羅を織りあげ、29歳で女人として生身のまま極楽往生した(女人往生)説話が残る中将姫。二上山の麓にある當麻寺(奈良県葛城市)で出家した。折口信夫の『死者の書』では、二上山に葬られた大津皇子の亡霊とまみえる

人形は1体制作するのに3カ月ほどかかり、細部まで作り込まれ、納得がいくまで何度もつくり直すという憂いを帯びた各人形たちの独自のまなざしから目が離せない。その人形(歴史上の人物)の感情を表し切るため、撮影角度や柔らかな光を当てるなど、光の当て方にもこだわる永瀬さんは自ら写真も撮る。

同展の人形はすべて撮影が可能で、永瀬さんは「ぜひ、人形の世界観が伝わるような写真を撮影していただければ嬉しいです」と語る。

同展について岩戸さんは、「20年以上展覧会をやってきましたが、これほどまで人と人との繋がりを感じたのは初めてです。皆さんの想いをつなげたというパズルがパチッとはまった気がします」と万感の思いを込めて語った。

企画展『万葉挽歌(レクイエム)―人形からみる古(いにしえ)の奈良―』は、国営平城宮跡歴史公園「平城宮いざない館」企画展示室で9月1日まで。観覧無料。8月12日には今回の出来事についてのトークショー「小さな出会いが結ぶ大きな物語」が開催予定。

取材・文・写真/いずみゆか

企画展『万葉挽歌(レクイエム)―人形からみる古(いにしえ)の奈良―』

期間:2024年7月13日(土)~2024年9月1日(日)
時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:無料

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